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–18– 秦趙同盟(前編)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「笑ってしまうでしょう」

 

 

そう言う男の顔色は暗い。

両者まみえるこの時の、空色のように曇る。

 

出会ったばかりと、特段感慨があるわけでもない。

笑う事もなく女は無表情のまま頷きもしない。

 

「初めての駄々を、初めて権力というやつを使って叶えてはみたけれど、無様でした」

 

男は自嘲気味に呟き、俯く。

これが笑顔というのなら、この男は余程の不幸者だ。

 

しかし女にとっての要は種である。

幸不幸の所在など猛毒にとって些細なことでしかなかった。

ゆえに手前の話などに会する必要もないと、応することはない。

 

「我ニ約束できル事は——————ヲ前を抱く間だけハ、お前ダけを。

                  こノ世さえモ差し置いて、愛(モノに)シてやれルとイう事ダケだ」

 

抱いてやろうと言う。

飽くまで己が優位性を譲らない女は、相も変らぬ尊大な態度でもって接する。

だが男はそんな女の言に括目した。

 

目前の尊大を、嫌悪ではない。

呆気にとられるという訳でもない。毒に中てられた訳でもない。

騙し騙され、欺かれる世界よりも至極清涼。

さながら羊水のような生温さに身を寄せる。

これを優しさと言うのならば

男はやはり 不幸であったのかも知れない

 

「・・・貴女達は愛する事を、ものにするというのですね。

       でもそれは、今の私にとって・・ ・・・本当に、欲しかったものです」

 

少なくとも、抱いて泣かれるよりは遥かに有難いと、辛気に目を閉じる。

 

 

「ワかラんな。我らハそんなモノに頓着しナい。種さエ手に入れバ用は無イ」

「・・・私は、この一時でも本当の愛がもらえるなら、それでいい。でも」

 

 

ぽつり、ぽつりと。

うな垂れ、双眸を閉じ、どうにもうだつの上がらなそうな優しげな男が

この時ばかりは顔をあげ、眼光鋭く言い放った。

 

 

「私は貴女も子も愛したい。ずっと。

       だから、適時ここへ参じたい」

 

 

最適というものは そちらに任せる。

主導権は譲るが主張は呑んでもらいたいと男は頑とした。

 

 

「お前ハ契りノ後でも我ト関わリを持つトいうノカ。 ・・我ラを知らぬ、平地ノ愚か者」

 

「子を成すのは愛する者同士のすることだ・・なのにどうしてこうも手に入らない・・!

   家族で傍にいたいと思うのは許されない事なのかっ!?」

 

急に声を荒げる男の異様さに勘付かぬでない。

此奴の言は手前にあって其処にはない。

当て所ない想いがここにきて宛てられているに過ぎない。

当人は別に在る。

愛の充当。

 

———————————不幸である。

 

女は察するが、やはり興味はない。

憂うとすれば文身。

山の民は数あれど、この猛毒を宿し行使する部族は

時代の後にも先にも己が率いる『それ』しかない。

 

 

「・・・・・罰が下ル」

 

 

下すのは天でも地でもない。

一族の血がそうさせる。

猛毒を平地の男が呷り続けるというのだから危惧もする。

 

 

「こノ身を凡夫で受け続けルには余リアる。とテもではナいガ、その代償。一人でハ済まされんぞ」

 

 

犠牲は免れない。

自身から、周囲から。ともすれば国を、大地をも殺す。

 

必要とあらば神も その眷属さえ沙汰してみせよう

種のみであれば一時の悦楽に興じて済む。

 

それ以上の幸福を毒に求める事がどういう事か。

 

 

違えようとも愛というのなら愛だろう。

目を逸らし呟く女を、今度は男が見据えた。

 

 

「凡夫…凡夫か。 ああ、相違ない。

   だがこの身に流れる血は並ではないから安心してくれ。

      私はもうこれ以上————————何者からもバツを喰らってやるつもりはない」

 

 

 

ほう、と 山の女は笑んだ自分を不思議に思う。

 

 

転じるだろうか

 

「・・お前ノ名ヲ聞かせロ。

     我ヲ愛しタイのだろウ?・・種主となル男の名ハ聞く慣ワしだ」

 

 

はた、と。

平地の男はその微笑みに、やっと笑顔を返した。

 

その表情に先程までの陰鬱とした気はない。

 

 

「———————私の名は——。

           愛する貴女に幸福を」

 

『あわせ示し陰の訪れ』

 

名を呼ばれた女は紅紫紺の瞳で男を射抜く。

双眸で捉えたそれは獲物の類であったろう。

 

 

雲間から陽が覗く

光が毒を照らすが、その体は————ああ、確かに毒である

 

 

射抜き、尚も見詰める瞳が美しい。

風に揺れる真赤な髪は鮮血を髣髴とさせる。

 

 

猛毒の類。およそ人の姿をした何かである。

 

 

髪も、そして瞳も。

代々一族が屠ったであろう人の血、殺した毒。

 

 

しかし。まるで。それでいて何より。

 

何者より。

確とする存在は、この地に生きるに違わぬ命の輝きを放っていた。

190820…

 

王騎の死から暫くして、俄かには信じ難い事件が耳に入る。

 

『呂不韋による春平君の拉致誘拐』

 

囚われのそれを呂不韋は、こともあろうに宰相に迎えに来させろというのだから豪胆の度も過ぎる。

 

敵国に足を踏み入れるという事は死と直結する。

これが毒にも薬にもならない者であれば或いは何事なく生存も有り得る。

 

しかし薬にもなり毒にもなり得る者。

 

特に敵国の宰相などという『話せる好人物』が出向くとなれば、話はもはや生死の枠を超えた。

 

「春平君を拉致!!?」

来朝していた寳子は拝手の体のまま声を上げる。

その様子は最もであると、秦の大王贏政は溜息を吐く。

側には昌文君。朝廷は他に何者もいない閑散としたものであった。

 

「ああ。誘拐した。我が国の丞相がな・・」

「・・・こんな時だけ『対等』を持ち出すなど、全く出来過ぎています」

 

呂不韋は己が存在にも貨を賭ける。

もう一つの貨は今や手中にある趙王の寵愛を受けし誰彼。

この戦国の世において、李牧の命と天秤にかけるにはあまりに矮小に過ぎるそれこそ春平君その人である。

 

————————商品を仕入れたという事は、狙いの客がいるということ。

しかしながら敵は来る。

その算段がつく。何よりも寵愛というその一点で傾国を物ともしない趙の悼襄王。

気に入りを側に置き、自らを諫める将を更迭。

また自軍で自軍の将同士を克ち合わせ討たんとしたため、彼の趙の三大天廉頗も見限り自ら魏に亡命した。

 

ゆえに暗君。餌を垂らせば入れ食いと知っている。

 

呂不韋は自身の竿と春平君という餌が————————趙とその王。

そして通じるに足る宰相を引っ掻けると知っていた。

 

 

「しかし李牧がこちらに来るとして・・またとない事であるのは確かです」

「何かを吹っ掛けるか・・。

   相手が乗れば僥倖。だがもし呂不韋の意にそぐわねば」

 

「・・・李牧は殺される」

 

 

敵国の宰相でありながら不憫で仕様がない。

更に言えば呂不韋の魂胆は飽くまで呂不韋のものということ。

 

秦はさておき。

ひいては己が利の為に事態を動かすのは目に見えていた。

 

 

「大王。畏れながらそれは、流石の呂不韋とて選べぬのでは」

「昌文君」

「殿・・」

 

「寳子の言う通り敵国の宰相が易々と来るなどまたとない機会。

   あ奴は必ずこの機を己が欲の為に利用するでしょう。殺すよりも利のあることを算段している筈です」

「(!)は、はい!私もそう思います!」

 

「そうだな・・それにもし李牧を殺し、趙の弱体化を狙うにしても

   呂不韋の悪事が中華全土に知れれば六国がここぞとばかりに秦を非難し、総攻撃を仕掛けて来るだろう」

 

「出方を見るとしましょう…相手も、こちらも」

 

 

昌文君の言に二人が応とする。

会談が終わると、昌文君と寳子は朝廷を後にした。

 

 

 

 

 

 

「・・・・・」

「・・・・・」

 

 

一歩外へ出ると心中とは打って変わり快晴。

屋敷へと戻る途中である。さぞ親子仲睦まじく

歓談に顔を綻ばせているかと思いきや—————肩を並べる姿は主従のそれに近しい。

戦場であれば策を弄するに会話の一つも割けたというもの。

しかしながら自国咸陽にて。

ついでに言えば目ぼしい話はついさっき政を交えて一段落を終えている。

黙々と帰路につく。

気まずさは残るものの、しかし板についていると話し掛けたのは寳子の方だった。

 

 

「・・・彼の敵は内にも在り。我々も対抗策を考えねばなりませんね」

 

 

呂不韋の敵は趙以外にもある。

寳子の言葉に応とするも、昌文君から返る言葉はない。

 

交わす言葉には必要を以てすること。

   明確な問答こそを常とし、またそれを良しとすることがこの『親子』の形であった。が。

 

「あ、あの・・・」

振りかぶり、その中に一石を投じようとする。

子である筈のその者がおずおずとする様子を、親である筈の老君が見詰める。

この異様さが漂う空間に、寳子は微かではあるが己が精一杯を振り絞り言を投げた。

 

「殿、その・・先程は。

  ・・・私の意見を推して下さり、   嬉しかったです」

 

 

確かな投石は水面に紋を浮かべる。

大きく波打つと広く、ゆっくりと広がり石は水底深くに落ちていった。

 

 

「・・寳子よ」

「は、はい!」

 

 

「筋の良い読みであった。今後も精進するように」

 

「・・・!はいっ!ありがとうございます!!!」

 

大体は戒めからの精進の勧めである。

滅多にない事に、満面の笑みを隠すという意識が働かない。

昌文君は寳子の笑顔を視止めると、一つ大きな咳払いをした。

「・・顔に出ておる。気を引き締めよ」

「!も・・申し訳ありません・・・!」

褒められてから直ぐの苦言に姿勢を正し、口を噤む。

 

昌文君の咎めは尤もである。

表情、言葉に己が意思を乗せるという事は呈する、ということ。

この群雄割拠の戦国時代において敵味方の分かれる時代。

更に言えば大王に近く在り、今後大任を仰せ付かるに研鑚を積む身において余りある。

 

しかし武官然とし、戦場——————殊更敵前では凛とし、戈を振るうと言っても齢十七の娘である。

『紅寳』などという綽名に似つかわしくない、本来何かにつけ

くだらない事で笑える年頃に強いるのは酷であろう事も知っている。

 

知ってはいる。だが、こちらも然とするより他がない。

拾い、育てる。

この現状に何の戸惑いもなかったと言えば嘘になる。

子に対し—————成長する娘に対し。

 

赤の他人である寳子という武官に。

幼少から身を挺してまでも仕えるべく大王に付き従い、身を粉にして秦に仕える事を強いた。

 

 

そして自らを父と呼ぶ事を禁じた手前。

 

秦国の未来を託した昌文君はただ、れっきとした父親として。

秦人の在り方、武官の矜持、武技、宮女の振る舞い、要人との付き合い、そして言葉。

これらを全て、あらゆるを尽くし授けること。

それこそが昌文君の

   精一杯の『彼女の父親』としての責任であった。

寳子が済まなそうに俯き、悔恨に身を晒していると唐突に昌文君が一人ごちる。

不可思議な様子に彼女は黙して待った。

 

「うむ・・・少し・・ いや」

「?(殿・・何か含んでおられる・・?)」

 

 

「・・・、戦場において何か気がかり・・ 問題はないか」

「え・・ ・・・あ、は、はい。あ、いえ・・。

   ・・・先の戦で王騎将軍に凶刃を届かせてしまいました。私自身の指揮力、機動力の見直しが目下課題・・」

 

「む・・そ、それはもうよい。

   今は考えるな。もう十分に話したであろう」

「はい・・・・」

 

 

そう呟くと一層自省に身を置く寳子。

 

これはマズい。王騎の事を思い出させるつもりはなかった。

このような状態は思う所ではない。

 

そうではないと『父』は、元より考えていた題に戻ろうと懸命に言を絞り出した。

 

 

「う、うむ・・コホン。

   ・・・・王氏の、は。どうなっている」

「おっ・・!? う、賁…ですかっ・・・!?」

 

「(何じゃ・・聞いてはならん事だったのか?)

    壁から話は聞いている。幼少の砌よりの付き合いだが、最近かなりの好意を示されているようだな」

「(壁兄〜〜〜〜〜!!!!!)

  ・・・・・・・・・・・あの、よく・・していただいてます」花とか。(いま連絡こないけど)(会えもしないけど)

 

 

年頃の娘に合う話を振ったつもりである。

しかし見える姿は苦虫を潰したように渋い。

片や娘側は年頃ゆえの気まずさに閉口する。

昔馴染みだからこそ複雑なものを抱えずにはいられない。

 

否、なぜ抱えることになってしまったのか。

それこそ彼女の目下難題でもある。

 

父と娘の心は見えず。

互いの見えない葛藤がそこにはあった。

 

 

「む……。そ、そうか」

昌文君が一人頷くと、寳子は力なく応とした。

 

娘とは こうも難しいものなのか

 

 

思うと、ふと。

胸中に自然と流れ込む『娘』の存在と、それへの感情。

   これまで感じたことのない———————否。 隠してきた流動に、誰より父殿本人が驚いた。

 

何か言いたげな昌文君に、寳子は首を傾げる。

それに気付いた父殿はまたもや、む。と唸ると何かに気づき歩を進める。

寳子もそれに倣うと、先には閑談場が見えた。

 

この状況でまさか腰を据えて話し合うのかと寳子は辟易するが、そこまでして父側に話があるのならば仕方がない。

それを察してか否か、二者は休憩もそこそこに。

先ほどよりも大層真面目な顔をして、彼女に言を投げかけた。

 

「・・・しかしな寳子。やはりお前は昌文の地の子女・・姫であることに変わりはない」

「・・・ ・・そうですか。王賁の話で気付くべきでした。

   後宮の話も、今の私にとっては大王の御身を護るための、武官としての手段の一つに過ぎません」

 

 

そのように望まれた。

そのように望んだ。

 

結果として現在も戦場に『紅寳』が憚り、戈を繰り敵を薙いでいるのだと語る。

 

 

「近ごろ頓に仰いますね。私が戦場に在る間・・家に何事かありましたか」

「儂がお前を権力拡大の道具にでも使うと思っておるのか」

 

「いえ。私は道具としては不十分・・なればこそです。

   ・・縁談を望まれているように聞こえます・・

 

        何故ですか。私の命は殿が抱えてくださった秦国のための命。戦場に生き、死ぬものと以前もお伝えしたはずです」

 

文身の存在を忘れた訳ではないだろう。

 

忘れられるはずのないものである。

 

 

流動が、轟々と音を立てて心中に吹き荒れる。

しかしその心を子は知らない。

 

知ることのできる位置に、まだ居られずにいた。

「・・・この身を受け入れられる者など・・ ・・殿を除いて」

綺麗などと曰う

   何も知らぬ———————温い『ばかものたち』しかいない

 

 

「王氏には申し訳ないと思っています。 しかし、できる事なら身の事は隠し通したいのです。

 

   ・・・近くありすぎたのです。これからは在りし日よりも遠い友として・・戦場で援け合えればと」

 

 

実際、王賁からの連絡は途絶えている。

先の理解の及ばぬ子供時分、自身も家柄も顧みず賑やかし過ぎてしまったと反省するには時が経ち過ぎていた。

 

 

「昌文君の子として、他家との難事を残してしまい申し訳ありません・・どうか、解決までお時間を・・」

「寳子。その耳飾・・

   王氏がお前を迎えに来た時からつけている物であろう」

 

 

動かずとした体が、違和を残す。

 

   どうやら邪推が当たってしまう程に、彼らが複雑な仲になっている事を昌文君はようやく理解した。

 

 

「・・お前が自分で空けたと言った時はまさかと思ったが・・年頃かと安堵した部分もあった。

     じゃが、そうでないとなると話は別だ」

「・・!殿っ・・」

 

「娘を傷物にしおって王氏の倅め・・」

 

『娘』

という言に寳子の頬が緩む。

が、しかし次いで聞こえた話に彼女は反論した。

 

 

「き、傷モノなどとっ! これはっ・・これはきっと・・ええと」

「責任を取るために敢えてした事なのだろうが、最近めっきり見えんではないか彼奴・・このまま許さずでおくべきか」

「お待ちください殿!?

   ああえっと・・!そ、それは私の所為でもあって・・戦の事情もかんがみるにっ!」

 

「寳子よ」

 

 

慌てふためく子を制する。

これには寳子も持ち上げた両の手を静かに下ろした。

 

 

「王氏の、あの聞かん坊が例え知ったとして。

 

   否。お前の容姿・・黒赤の髪、紅紫紺の瞳を知ってなお情を抱き、衝動を抑えぬであったなら

      ・・元ある傷を見て、今更何を動くかとも思う所ではあるのだ」

 

身体を穿った者が、刻まれる文身を非難できる身ではないだろう。

 

相手が名家とて、こちらも大王の側近の内である。

以前は言えずとも今や文官として名を馳せる。

家間の争いも覚悟しての事と、昌文君が息巻くと寳子は下ろした両の手を再び挙げた。

 

 

「と、取り敢えず落ち着いてください殿・・私も努めて落ち着きますので・・」

「何を・・儂は落ち着いておるっ!」

「う・・失礼を致しました・・」

     

腕を組み、意気込む昌文君に寳子は身を引かざるを得ない。

父の熱をなんとか冷ましつつ、彼女はやんわりと話を締めにかかった。

 

 

「・・・。我らの無鉄砲さは、時が経つほどに通りにくいものではありませんか。

        名家なら尚更。問題のある者を娶るなど・・知らぬ存ぜぬで通す彼ではありませんよ」

 

「それでも『通す』なら、お前はどうするのだ」

 

 

 

 

そんな事はあり得ないと

そう思っていた寳子の思考に、一石が投じられる。

 

 

——————————————通す。

 

 

どんな意地も

どんな窮地も

 

その真っ直ぐさは、何より幾度と手合わせした彼女の知らぬ所ではなかった。

 

 

それでも。

 

 

 

「・・・・・・『通りません』よ」

 

 

 

事実、打ち出すそれは槍ではない。

槍でなければ通らぬも道理。

通らぬこそが道理であると、寳子は双眸を閉じた。

 

 

 

彼女の様子に言いたがり、しかし口籠る昌文君に寳子も言を切る。

目を開けると、柔らかい笑みの中に薄く諦観の念。

文身の意味する所。

 

それはここまで懸念する彼女の想い以上の厄介さを内包していた。

 

 

 

 

「うむ・・しかし。 では、蒙家のもそういう事か」

「へ!?」

 

素っ頓狂な声とはまさにこの事と、寳子は己が抜けた声に口元を緩めるとそれを塞ぐ。

父の冷ややかな視線を虚ろな渾身で受け流すが、またもや出たのは意外すぎる言葉だった。

 

「何を驚く・・ 蒙恬だったか。来るならば彼奴が先かと思っていたのだがな」

 

ついには吹き出し抱腹する寳子に昌文君は目を丸くする。

掠れる笑声と共に手を緩く振ると、彼女は涙目で父に答えた。

 

「申し訳ありません・・くく・・

    し、しかし。まさか、なぜ蒙恬・・しかも王賁より先とは何の根拠があるのですか・・!」

 

「ぬ・・お前たちは三人組の『連理子』として仲睦まじくしておったじゃろう・・!

      儂が相対した分では蒙家のがじゃな・・」

 

「それこそまさか!彼は私に自分の事を女と言っていたのです。それも長く。

    という事は私など初めから女として眼中になく、最たる親友でいたいという思いの現れではないですか」

 

 

殊更に見目麗しく、柔軟でありながら内にある気概は確かなものである。

蒙恬は決して女ではない、しかし女をも凌ぐ嫋やかさと

それに反する事のない圧倒的な男の部分で以って浮名を流す、寳子の昔馴染みであった。

独特の雰囲気に様々子女らが放っておかぬ存在————————

   しかもそれが無骨な武人、蒙武の息子というのだからその相違も相俟って人気を呼んでいた。

 

その人物が、如何に幼少より親しいからといって自分に愛だのを語るなど想像できない。

会えばふざけて身を寄せ、抱きしめ合ったりなどするが飽くまで友としての好意の範囲であると彼女は説く。

 

むしろ王賁との事を後押ししてくるのだから、これが彼の愛ならばさぞ複雑であるが————————寳子の与り知らぬ事である。

 

 

(ふう・・しこたま笑ってしまった。

   殿はたまに、こうして戯れの過ぎる時がおありだ・・そこがまた可愛らしく在らせられるのだが)

そこまで思い、はたと。

一家を抱える父殿に何という無礼をと、気持ちを改めると寳子は咳払いをし背筋を伸ばして昌文君に向き直る。

昌文君は納得がいかない様子であるが、彼女はその面持ちに、また小さく笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 

こんな話の発端になったものを探る。

———————王氏か、はたまた兄分にか。そのどちらにもか。

他にも諸々と出てくる問題事に突き当たると寳子の口からまた笑声が漏れる。

口下手な父と国の武官然とする娘。

自ら吹っ掛けた難題であるが、危うく深刻な事態となりそうな所を娘の笑顔で救われる。

これには昌文君も、やっと表情を和らげた。 のも束の間。

 

「どうか憂いなく。我が命、散っても恥とならぬよう整えて参ります」

 

 

そう言って毅然と拝手する娘に、父は目を見張る。

———————確かに、望んだことであった。

その為に、拾った命であった。

 

しかし、と。

自身の心情、寳子の反応の複雑さに内心頭をかかえる昌文君もまた、親子の在り方に苦慮していた。

 

(・・そうか。これが子女達が言っていた、親の難な気遣いか・・)

気疲れに遠くを見た寳子が、しかし。 はた、と。

 

何かに気付き。

想いは違えど。同じく慣れぬことに脱力している昌文君を真っ直ぐに見やった。

(あ・・)

今、何をしていたろう。

この国に関係のない。

戦術、戦況に関係のない、他愛もない。

 

(私・・・いま殿と)

 

 

話をしていた。

会話、歓談の類。

父娘の、極々普通(厄介)と言って相違ないものである。

 

 

 

(もしや、殿は)

 

むしろ延々、武官の体を持ち出し憮然としていたのは誰だ。

 

世間話をしていた事に気がつくと、寳子の頬が緩む。

単に親としての気遣いであったなら、とんだ親不孝者であったのは一体誰なのか。

 

思い過ごしとするには切ない。

例え血の繋がらぬ親子だとしても

 

自意識過剰でもいっそ信じ通したいと

   娘は悔恨と同時ににやける体を悟られまいと———————やはり毅然と、父に相対してしまった。

 

この似ない親子にとって。

これまで生きる術と報せの応酬しか碌にしてこなかった父娘にとって、それは稀有な出来事であった。

——————————————もっと、語り合えたなら

もっと自然に、それこそ稀有と感じずにいられるほどの親子の関係となれたならどれほど幸福か。

 

それこそが彼女の願いの一つである。

 

大将軍となり、父の威として己を掲げ認められること。

自身を誇り、また誇りとしてもらうこと。

 

そうすれば数多の疑心は解かれ、心を苛む———————実子ではないという後ろめたさも消える。

 

 

「?何事かあったか・・と、儂が言えた義理ではないか」

「あ、い、いえ・・!」

何とも言えない、寳子の怪訝な様子に昌文君は声を掛ける。

彼女は両の手で制するが、その指は柔く弧を描き弱気を呈した。

 

 

 

 

そんな父娘を遠目で見やっていた男が一人、拳を握り込めながら二人に近づく。

寳子は背後の気配に気付くと意思よりも先に立ち上がり構えた。

しかしそれを御したのは他でもない。身を挺し、護ろうとした父、昌文君自身であった。

「肆氏様・・・」

 

男の顔を見改めると、寳子はその者の名を呟く。

応とし、拝手する体はいつかの無礼に対するようにも見えた。

 

「父子の談とは、お前たちにしては珍しい光景だな」

 

「う」

「む」

 

さすが親子。似たような反応をする———————とまでは口にするのを憚る。

気が浮ついている、聞き流せとは不躾の言である。

寳子は文句あり気に構えを解くと、目前の不躾に問うた。

 

 

「なぜ貴方がここに。貴方は王弟の一件でまだ・・」

「大王の命によってここへ来た」

 

 

ぎくり、と。

似たように目を見張る二人に当人は口の端を上げる。

恐らくは気づいていないであろう親子に、しかし事実を告げる必要はない。

 

 

(王弟反乱はこの方の力無くしては有り得なかった・・贏政さま、ついに)

 

「側近の一人として正式に迎えられたのだ」

「なんじゃと!?」

 

「・・貴方がたを持ち出したという事は・・

     いよいよ大王の中華統一が、見える位置で動き出したということですね」

 

 

三者三様と、必要以上に語る事もなく思い思いの体をなす。

沈黙の中、口を開いた肆氏はその為の謁見であるとし、その場を後にした。

 

 

後にしようとして—————————————— 振り返る。

 

視線は寳子に。

かち合うと再び開口し、放たれた言は彼女にも振り返りを要求するものであった。

 

 

 

 

「前を向けているか。寳子」

 

 

 

 

全てを振り返られるその時まで

 

 

お前は前だけを見ておけ

 

 

 

覚えているぞと。

口の端を上げた彼女が発した言はしかし、意外なものであった。

 

 

 

「・・・私の見る景色が ————————————『前』であることを、願わずにはいられません」

 

 

 

含みのある答えに父はまたギクリと身を揺らし、問うた男は目を細める。

声もなく応とすると、今度こそ場を後にした。

 

 

「・・なんじゃあの男・・不躾に」

「いえ、適っておりました。

   ・・あの方は案じて下さったのです。殿」

 

 

黙々とする男の背を見送る表情は何事もない。

 

 

それが正しいか否か。

 

寳子は背に背を向け歩き出す。

前と信じて歩く背に、父は何を投げかけられるでもなかった。

 

しかしそれは肆氏とて同じである。

 

 

(まだ穢れは見えぬ)

 

 

疑を抱く昌文君の様子に一抹の不安を覚える。

 

落とせる汚れと

落とせぬ穢れに気づいているか

 

 

———————————————皮肉にも近しい者より見える事がある。

 

 

 

見えぬ振りではない。

 

しかし見えないもの。

 

 

 

 

「・・・見えぬからこそ」

 

 

呟くと堂々門を潜る。

危うさに憂いを残しつつ、直属の側近となった肆氏は大王と相見えた。

190827

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